文書生活 : TEXT LIFE

文書のある生活

25年前には仕事には「待ち時間」があった

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また、平成末期の労働者と比較すると、たとえば昭和時代の労働者の仕事ぶりには”あそび”の部分が少なくなかった。昭和時代の労働者が長時間職場にいたのは事実だとしても、平成末期の労働者のような密度で働き詰めていたわけではない。

自分が仕事についたのは25年ぐらい前で、既に平成だった。振り返れば、今よりも仕事にゆとりがあった、というか仕事の中に「待ち時間」というのがあった。「待ち時間」とは?

仕事についた時から現在までデジタル画像処理技術の研究開発に携わっている。最初の頃はSun SPARC Stationで画像処理のsimulationをやっていたのだが、当時のSPARCの処理能力やメモリ、HDDの容量だと400dpi RGB24bitの画像を処理するのにかなり長い時間がかかった。処理内容にもよるが1時間以上かかったような気がする。結果が出るまでは「待ち時間」だったな。

その画像を数十枚処理するとなったらbatchを書いて夜中や終末に処理させて結果を確認していた。バグがあったり、パラメータを間違えたりして最初からやり直しすることも多かった。最近の機械学習に時間がかかるような、そんな感じだった。

なので、結果が出るまでの間は別の作業をしているのだが、基本的には「待ち時間」だった。PCも性能が低くて、資料作成にも時間がかかる。それが当たり前だったので、のんびりと仕事をしていたような気がする。あんまり短納期の仕事も求められていなかったし、予算も潤沢だったなあ。

これだけじゃなくて色々な「待ち時間」が仕事の中にあって(A4フルカラーで印刷するのに1時間ぐらい必要だったり)、仕事場に毎日20時ぐらいまで居たけど、あんまり苦にはならなかったな。上司やメンバーに恵まれていたからかもしれない。

今は機械学習以外の処理はほとんと数秒も必要とせず終わってしまうので、なんだかこちらが急かされているような気がする。もうすこしジックリとユックリと技術のことを考えたいよねえ。

技術者が機械学習にハマるのは、案外「待ち時間」がほしいからかもしれないな。自分は、ちょっとそう思っている。